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【反科学論1】科学を信仰するなと言うのは間違っている

自然科学は、自然現象を観察し、自然の法則を見つけ出す。または、今までの知見の上に立って、理論的に新しい法則を提唱する。そして、その法則は、データによって裏付けられると法則は立証されたと言われる。しかし、自然科学が立証したと言う自然界の法則は、あくまで仮説だ。
第一に科学はとんだ間違いを犯すことがある。それは歴史を見れば明らか。
第二に観測データから立証されたと言っても、観測データを別の法則で解釈できる可能性は常に残っているし、それを排除することは不可能だ。

しかし、このことを忘れて、自然科学の法則は絶対視されているようだ。地球温暖化論などはその典型であろう。

自然科学の絶対視は、誰がしているのかが問題である。それは、科学者自身であると言うよりも、一般大衆だろう。自然科学者は、科学的態度の中の重要な要素は、懐疑的態度であり、科学法則は仮説であり、絶対視するのは科学的態度ではなく、異説を唱えるのは科学者の価値ある仕事だと理解しているだろう。
一般大衆が自然科学者の言うことを鵜呑みにしているのだ。

では、この鵜呑みはどうして起こるのか。それは、やはり、時代の要請であろう。宗教に代わって未来を予言する役割を科学者に負わせたという事だろう。科学者は、呪術社会における呪術師と同じ社会的役割を負わされている。それは、社会が要請していること。その裏には、不安の心理が隠されている。

良心的な科学者ならば、この呪術師の役割を拒否すべきなのだ。科学は未来を予見しないと断言すべきだ。それができないのであれば、少なくとも、分からない事は分からないとはっきりいうべきだ。

インチキな科学者は、呪術師の役割を自ら進んで演じ、その裏にある不安の心理に応えるだろう。不安の心理を利用して、研究費を社会に要求するだろう。そして、未来の危機を訴えつづける。

地球温暖化論争で、地球温暖化脅威論を唱える科学者は、「私はすべてを知っている。私は未来を予見する」と言っているように見える。

地球温暖化論争でその懐疑論と否定論側に立つ科学者は、「未来の予見などできない。なぜなら、このこととこのことはまだよく分かっていないのだ」と言っているように見える。

だから、私は、地球温暖化懐疑論や否定論の科学者の言うことに信頼を置く。

科学は信じるものではない。信頼するものでもない。科学は信仰ではない。データで実証し客観的普遍的法則を提唱するものだと言われている。

しかし、私たち一般庶民には、実証したり反証したりできない。だから、信用したり信頼したりするだけの立場に追い込まれている。この事実が重要なのであって、科学信仰にはそれなりの現実的な理由があるのだ。この理由が取り除かれない限り、科学信仰を非難しても始まらない。科学信仰はなくならない。
科学を信仰するなと言う事はよく言われるが、それは無理な相談なのだ。科学を信仰するなと言うのは間違った非現実的な要請だ。

事はそれほど単純ではないが、科学や科学者の言うことのどこを信用するのか、どの点を信頼するのか、その基準ぐらいは、自分で決めたいものだ。そして自分で決める権利があると思う。

私は、「ここまで分かっている、このことはとても分からない」と言う科学者を信頼する。

科学を信仰するなと言うのは間違っている。科学信仰への非難は、現実的には無理なことを言っているのであり、結果的に、科学信仰を強めると思う。
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